どうも、中原です。鹿児島空港に着いてから、宮崎県まで歩いて宮崎県入りしました。深夜で街灯一つもない山道を一人で歩きました。初めは冒険している感じで楽しかったんですが、途中から、ホント死ぬかと思いました。
イノシシが出てきたら、「素手で戦おう」と心で決心した日は25年間生きていて、初めての経験でした。
歩きすぎて、そこから3日はまともにちゃんと歩けませんでした。加減って大切ですね。
ということで、僕はこんな感じの宮崎県入りをして、宮崎県宮崎市にあるシェアハウス。”ミヤザキ村coming館”に行ってきました。”ミヤザキ村coming館”には僕が予定してた日よりも一日早めに行ったのですが、心良く受け入れてくれました。足がボロボロの僕とって、神様に見えました。ホントありがとうございました。
そんな”ミヤザキ村coming館”は南宮崎駅から徒歩で10分くらいで着くところに位置しています。そして、ミヤザキ村coming館の内観はこちらです。
ミヤザキ村coming館とは?
一言でいうと『ゲストハウス×シェアハウス』です物件自体は二階建ての一軒家に、今現在五人の住人がいます。(2014年9月9日)住人の部屋は二階にあり、一階はリビングと和室が二間あり、そこが常に空いている状態になっています。
その二間に旅人や友達が来た際に泊まる形になっています。そのため、旅人なんかもよくミヤザキ村coming館に遊びに来るみたいです。また、リビングと和室2間はフスマで区切られているため、そこを全部開いてイベントを行うことも可能です。
僕も今回、この和室2間に泊めさせて頂きました。風通しもとても良くぐっすり寝ることが出来ました。自分の家でないのに、なんであんな安心感があるのかが凄く謎でした。
ほんと凄く落ち着くんですよー!!
で、僕が行った日は戸越さんのお母さんが来ていらしてて、豪華なご飯を作っていました。僕はなんてタイミングがいいのだろうかと、心の中でガッツポーズをしていました。ホントとても美味しいご飯で、お腹いっぱい食べさせていただきました。
また、ミヤザキ村coming館では料理教室などのイベントを行ったり、定期的にイベントを行っております。
ミヤザキ村coming館の始まりは東日本大震災
こんな暖かみのあるミヤザキ村はなんで生まれたのか?インビューの一部分をご紹介したいと思います。
ミヤザキ村coming館のきっかけは東日本大震災がきっかけです。戸越さんは学校を卒業後、就職で6年間関東にいました。そんなときに東日本大震災が起きました。
当時は高層ビルが立ち並ぶ街、東京の大崎にいました。しかし、東日本大震災が起きるとその日の交通機関は麻痺し身動きが取れない状態になり、食べものを買いにコンビニに向かっても、そこに売ってあったあらゆる食料が無くなっているという現状を目の当たりにしました。
自分は財布の中にお金を持っていたけども、それが使えない。
今まではお金があれば「安心」というところがあったけども、お金が通用しなくなる瞬間ってあるんだと感じました。
これをおきに、今まで自分がお金に依存していたことに気づき、これからもそうやって生きていくというのは、凄く怖いなと思いました。そして、これから生き方を変えないといけないと思うようになりました。
それから、どうやって生きて行こうかと自問自答したときに、お金に変わる何かを自分は持たなくてはいけない。それが自分にとっては”コミュニティー”であると感じました。
こういった経験から、今のミヤザキ村coming館は生まれました。正直、今回の話を聞いてお金が通用しなくなる瞬間というものを想像したことがなかった僕は心の底をえぐられたような気持ちになりました。
『お金に変わる何か?』
これって凄く重要なものだと思います。お金が通用しなくなる世界なんて僕が生きていた25年間でまだ一度も経験したことがありません。なので、そんなこと一回も考えたことがなかったのが正直なところです。でも、実際にそんな状況になりうることってあるんだ。と認識させていただきました。
お金が通用しなくなる世界とか、全く想像がつきません。でも、実際にそういう現場に居合わせたとしたら、どうしていいのかわからなくなり混乱するだろうなと思います。
そして、こういった経緯から出来たミヤザキ村comig館は住んでいる人のコミュニケーションを一番に大切にしていました。それを大切にしているからこそ、安心感や、居心地の良さが出てくるのではないかと思いました。
宮崎県宮崎市にあるとても人間的な暖かみのあるシェアハウス”ミヤザキ村coming館”にみなさんも遊びに行ってみてください。
というより、是非行って欲しい!!
最後に、ここの館長である戸越さんはマジイケメンですよーー!!!!
以上。中原でしたー。